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〇 映り
刀剣の世界では「現代の作家は、鎌倉期の作品を超えることはできない」と言われることがあります。 しかし本日、古刀で見られるような乱れ映りを、兵庫県の刀匠・高見國一による現代刀に見ることができました(うわさでは聞いてはいたのですが)。
しかも透き通るような地金に… 私の知らない間に新たな時代が始まっていたのでした。
景光へのオマージュでしょうか?静かで冷たい「氷」のような良い作品です。

令和7年8月22日
〇 納涼図屏風
私の心を刺すような屏風です。
私は生きたいように生きてきた結果、家族を持つことなく過ごしてきました(後悔はありません)。
この絵に描かれているのは、英雄でも有名人でもない(と思う)、ただ家族で月を眺め、涼んでいるだけの姿です。
実に平和で、その情景に込められた作家の意図が痛いほど伝わってきます。
三人それぞれの表情が、たまらなく胸に迫ってくるのです。
高尚な仏画よりも、むしろ心に突き刺さる――そんな絵でした。
(ごく稀に東京国立博物館で展示されます)

令和7年8月15日
〇 秋草文壺不思議なこの壺、秋の情景がぎっしり刻まれている、なんだか非常に楽しそうな表現の壺です。
口にはトンボがいる、瓜がなっている、柳の枝とススキは風に揺れている、どこにでもある風景ですが、遠い過去のような、遠い場所のような?
私には陽気な作品に感じるのですが、これは骨壺だといいます、きっと家族は故人に合わせて作ったり、選んだりしたのでしょうか?
こんなに壺に秋を刻みまくった壺は見たことがありません、やっぱり面白い壺だと思います。
この壺で一つ分からない絵があるのです、直角の線が連なり左右対称に配置してある、吉祥文様だろうか?うーんなんだろう?死ぬまでに解明したい。
(この壺は比較的よく東博で展示されています。)
令和7年7月8日
〇 奔馬
高校時代、学校をサボって湊川駅で、新開地で買った古本を読んで過ごすことがよくありました。
三島由紀夫の『豊饒の海』の第二巻「奔馬」のラストシーン――
飯沼勲が「刀を腹へ突き立てた瞬間・・」その場面を読んだとき、心が震えた。
この短刀を見てその時を思い出した48才の白髪まじりのおっさん。
活字にドキドキした、高校生のあの頃。
(切先まで緊張感が張り詰めている、石田貞宗)
令和7年7月7日
〇 邪悪
あまりにも有名なこの土器。感じ方には個人差があるかもしれませんが、私には、その造形により強く「邪悪さ」が宿っているように感じます。
人間の心の暗黒面から呼び起こされるような、不穏な恐怖を感じさせる「装置」、そんな印象を受けます。
注目されがちな上部の形状に目を奪われがちですが、下部に刻まれた禍々しい模様はいったいなんだろう?醜くもあり、美しくもあり
「火焔型」という呼び名がついていますが、私には「邪悪」という言葉の方がしっくりきます。
これは、人間の表現の原点に近い場所から現れたものであり、人をひざまずかせる力を持つ最上の芸術作品だと思います。
(火焔型土器、東博でたまに出会えます)
令和7年7月5日
〇 熱量
今年3回目の東博。今日は久しぶりに中務正宗、火焔型土器、そして秋草文壺を見ることができ、
そのほかにもさまざまな作品と出会い、時間を忘れて見入ってしまいました。
私自身も、作品(ひどいものですが…)をつくる身として感じるのですが、
人が何かを真剣に制作すると、その人の美意識や性格、哲学などが作品に宿り、まるで作り手の一部が作品となってこちらに語りかけてくるようです。
縄文時代や鎌倉時代に作られたものであっても、そこに込められた熱量は決して冷めることなく、今もなお強く伝わってきます。
思わず火傷しそうになるくらいに――。
(写真は静かに燃え立つような大般若長光)
令和7年7月3日
〇 不東
実家に帰ったついでに、奈良の薬師寺に立ち寄りました。薬師寺には、あの三蔵法師・玄奘の塔があります。その前に立った瞬間、昔見たNHKの「シルクロード」を思い出しました。 玄奘がタクラマカン砂漠を越えた体験のひとつは『大唐西域記』にこう記されています。
「人は多く道に迷う。四方一面茫々として行く道なし。よって往来には人の遺骸を集めて道しるべとなす。水草に乏しく、熱風多し。風起これば、たちまち病をなすにいたる。時には歌声を聴き、時には人の泣き声を聞く。声に従って歩けば、たちまち道を失う。悪魔の成せるわざなり。」玄奘は、人の心を探究する法相宗を開いた高僧です。この文章は、単に砂漠を越える過酷さを記したものではなく、人生の苦境を象徴しているようにも感じられます。
誰の人生にも、タクラマカン砂漠を越えるような場面があるものでしょう、弱気になれば、実在しない誰かの悪口や惑わす声が聞こえてくることもあります――「悪魔のささやき」にご用心を。

令和7年6月3日