音楽の歴史についての僕なりの考え
美しい音階によるメロディーにはなんらかの数学的法則があることに気付いたのは紀元前5~6世紀のギリシャといいます、文献で有名なのはピタゴラス、またはその教団による数学的な発見です。よく響きあう2つの音を同じ弦の長さで表すと簡単な整数比となるという事実で、それは基準の音を決めてその長さの1/2の場所を固定して音を鳴らせばオクターブ、2/3ではよく響く(5度の)音が鳴り、4/3の場所を固定し音を鳴らせばまたまたよく響く(4度の)音が鳴ります、これをもとに12の音階を計算により導き(しかし計算はうまくいきませんでした、これをピュタゴラスコンマといいます)、これを中世のヨーロッパで無理矢理割り切れるように対数的に12等分したのが今の平均率の計算のしかたです。ちなみに数式とすれば12log2(V/V。)になります(12は12に分割、底の2は12上がると2倍になるという意味、V/V。は振動数の比)、この平均律の発見が、自由で自然な転調を可能とし、音楽の均質化、グローバル化、記譜法の発展につながることになるのですが、逆に音楽イコール「12平均率」という考えへと世界は染まってしまったように感じます。
かつてピタゴラス教団はアルケー(世の根源)を「数」だとして、ハルモニア(調和)を世界の規律の基として数学に重きをおき、世界は精妙な天上の音楽に満ちていると考えました。確かに物には固有振動数があり、光や電子もまた波の性質を持ち、波は振動であり、地球は規則正しく太陽の周りを回りまた規則正しく自転もしています、世界に存在するものはいたるところで震え、お互い響きあい存在しています、私は現代においてもこの考えはあながち間違っていないどころか的を得ているようにも感じます、現代においてはその太古の精神性や神秘性、美意識にもう少し目を向ける必要があるような気がします、あまりにも音楽の感情的な伝達部分に耳を傾けすぎているような気もするのです。
この現在の音楽の構成(12平均律)は変わらずっと続いていくのでしょうか?今まで来た道も、本当はわき道があって違う風景が見える道もあったのではないでしょうか?そんなことを高校生ぐらいから考えることがありました、小さいことですが私はそういうことを探求しているつもりです。はるかかなたの昔に音楽が持っていた数学や哲学、美意識などをこの現在に取り戻す作業ができたらと思っています。
ただ究極にはこの世は割り切れないようにできているに違いないと思うことも多いです、そこには永遠の謎と美があるのだろう。…?とも思うのですが。